i'm a part of it

感情は長続きしない。
人間は気まぐれだ。
習慣を作れ、趣味だとか癖にしろl。
努力の仕方を学びなさい。
(via kyohei1989) (via usaginobike) (via katarinax) (via morishige)
akielizabeth:

classics:

petapeta:

theemitter:

kaktak:
Jack Nicholson & Aphex Twin

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Jack Nicholson & Aphex Twin
個人で持つのは「Macは魅力的で盗まれやすいから買いたくない」という、日本では考えられない理由で買い控える人が少なくないのだ。 Macは、アップルは、中国で今どうなっている?:山谷剛史「中国電脳最新事情」 (via 00a) (via yaruo) (via udonchan) (via otsune)

また「“常識”より“良識”を」と言う人もいますが、「良識」もすべての人の見解が一致しているわけではなく、同じように「正義」も一人ひとりで解釈が違うのは当然のことです。

 自分と「常識」や「普通」や「良識」や「正義」についての解釈が違う相手に対して、私たちは否定したり、非難したり、直そうとしたりしてしまいがちです。そうしてしまう理由は、結局自分の中の常識や普通に自信がないためなのです。

 私たちは自分と違う価値観を持った相手を否定することで、自分の常識を補完したいと思ってしまうのです。

【6】「非常識な人だ」と思う前に、相手の「心のクセ」だと考えよう:日経ビジネスオンライン (via otsune)
(via nobushoji)

(via nobushoji)

ヒップホップは自己愛に満ちた音楽である。こんな俺だけどカッケーベ!といったある種の開き直り、そこに痛快さがある歌詞世界。ある意味これは自己肯定の音楽なのである。ニューヨークのゲトーの住人たちのメンタリティが世界に飛び火してヒップホップはでかくなっていった。それが正しかろうが正しくなかろうが、俺はこうだと言い切る強さ。そこにこの音楽の根源があるのだろう。つまり揺るぎない意志を持ってヒップホップは作られるべきなのだ。そこで彼らが戦ったのは自分たち自身であっただろうことは疑う余地もない。さっき彼らはどん底から這い上がってきたと言ったが、その正に「どん底」な時代に意地の悪い人間はよくこう言ったものだ。「なんで日本人がラップする必要あんの?」と。「あれは黒人の文化でしょ」と。これは高校生だった当時の俺自身も何度となくまわりに言われたことだった。屈辱だったが無理もない、なぜなら小さかった当時のシーンの外の人間たちには日本語でのラップの仕方さえ想像できなかっただろうから。そしてその意義もわからなかったに違いない。「ラップなんてノリ一発のものでしょ、それが出来るのはリズム感のいい黒人だからでしょ」などという今考えれば人種問題とも取られかねないような極論がまかり通り、それは同時に世間の大多数の意見だった。それを長い年月をかけて先人たちが一歩一歩わからせてきたのだ。「日本人だってラップしたい!」「日本人だってラップ出来る!」「日本人だってラップする意味と意義がある!」これは本当に今の若者には想像つかない心境なんじゃないだろうか。今の日本に「ヒップホップ」が根付いたのかはわからない、だが日本人がラップ出来ることは今の若者なら誰でも知っている当たり前のことなのだから。


その「当たり前」を作ったのがさんぴん世代とそれ以前のパイオニアたちなのだ。ヒップホップを生きることはこの国ではもともとリスキーなことであったのだ。金にもならない、女にもモテない、理解すらされない。だが彼らはマイクを置かなかった。ただただラップがしたかったのだ、狂おしいほどに。そこに見返りを持とうとしたなら続けられるわけがなかった。そんな時代があったのだ。そのことをシーンの住人たちは忘れてはいけない。そしてもちろんライムスターがそれを忘れるわけがなかった。その昔マイクロフォンペイジャーが提示したのはニューヨークのヒップホップのライフスタイルだった。その歌詞世界も向こうのシーンに影響を受けたものだったし、そこがクールでスタイリッシュな理由だったわけだ。だが一方ライムスは音楽性は確かにどこまでもヒップホップだったが、その歌詞世界はペイジャーとは対極にどこまでも泥臭い日本人独自の感性に満ちていた。彼らは東京をニューヨークに見立てて歌詞を書くことが出来なかった、なぜならそれは幻想であるからだ。USのヒップホップを聴きながらも俺たちは米と納豆を食うのだ。チキン&ワッフルではなく。欧米か!否、ここは日本である。つまり彼らは「アメリカ的である」ことを初めから諦めていたし、そこからでないとオリジナルな何かなど生まれるはずもないと思っていたのだろう。


では「アメリカ的」な美学を歌詞から排除し、日本人であることを肯定した上でどうヒップホップを説明するのか。それが彼らの命題であった。彼らは英語が話せる一部のラッパーとは違い、この国の大多数の日本人と同じく日本的であった。欧米人じゃない、ゲトー出身でもない、不良だったわけでもない。じゃあ何に惹かれた?ヒップホップの何が自分たちをここまで突き動かした?そこを提示したかったのだろう。そして彼らはそれが「メンタリティ」であることに行き着いた。アメリカのゲトーの住人たちがホワイトアメリカに対して持っていた劣等感がこの文化のパワーの源ならば、日本人が欧米人に対して持つ劣等感がパワーにならないわけがない。なんせ我々の国は敗戦国なのだ。だから陳腐な言葉だがやはりヒップホップは「勝ち上がり」や「下克上」を目指す文化なのだ。既存の価値観を、ゲームをひっくり返すこと。それを「何ものにも媚びず」成し遂げるために「己を磨く」こと。それこそがヒップホップがヒップホップ足る理由なのだとライムスは考えたのであろう。そしてその意思が固まり、音源として世に放たれたのは前作エゴトピアから三年以上が経過した98年だった。彼らはヒップホッパーのメンタリティを「Bボーイイズム」と呼び、それを曲名に掲げてついにシーンにカムバックしたのだ。前述のユウザロックによる「ヒップホップナイトフライト」の放送で俺は初めてその曲を聴き、ぶっ飛びまくって椅子から転げ落ちた。

ライムスターその伍。|DABO Official BLOG『PAPER MOON MAN』

イイ文章だ。

(via souchou) (via loopdrive) (via crakka)

(via junkyokohama) (via inumoto) (via frequency123)

(via okadadada)

(via tofubeats) (via kondot) (via 0024h)

総括として、良かった点。

典型的な年功序列型組織である官僚機構には、軌道修正という機能が完全に欠落し
ているということがよく分かった。
昭和40年代に作った事業を「理由は自分達でも分からないけど辞められない」と
いうのはもはや末期症状だ。
今回の基準を類似事業にも適用し、来年度以降もびしびし絞っていくと言っている
わけだから、(財務省的な基準であるにせよ)とりあえず一定の歯止めをかけられた
のは評価すべきだと思う。
ちなみに、財務省が分かっていながら予算を削れなかった理由は、自民党の族議員
の存在だ。小泉さんですら手を焼いた族議員を、霞が関から一掃したわけだから、
やはり政権交代は必要なのだ。

ルポ@事業仕分け - Joe’s Labo (via kml) (via pdl2h) (via otsune)